リベラルアーツってなんや?

僕の好きな話で、「これは水です」という話がある。

This Is Water

何が言いたいのかというと、他人同士がそもそもわかり合うことは難しい。けど、リベラルアーツやらなんやらを使って、想像力を働かせて相手に接することができれば、少しは日常生活が良くなるよ。っていう話だと、僕は解釈している。

確かに理屈としては、すごく正しい。だけど、これ、頭でわかっていても、いざ実際に実行に移すとなると、すごく難しい。昔から身についている生活習慣っていうのは、意外と根が深いもので、それが身近な親友や恋人の何気ない振る舞いにさえ苛立ちを覚えることさえある。ましてや、さして興味を覚えない他人であるならば、尚更だ。紹介した話のいい所は、働き出すと時間も精神もだんだん擦り切れていくよ。って話をちゃんとしている部分にあると思う。余裕がある内は誰でも、他人にやさしくできる。「余裕が無い時に人は試されてる」という一言が暗に含まれている。この話は少し、ハンロンの剃刀の話に似ている部分がある。ハンロンの剃刀

結局のところ、余裕のある・知的な人というのは、こういう地道な相手に想像力を使う部分から来ているのかもしれない。そして、想像力を使うには元となるタネやストーリーが必要だ。どういう風に想像すればいいか理解できていないのであるならば、それこそ考えるだけムダだと思う。大抵の大人達がバカの一つ覚えみたいに「考えろ」とか「想像しろ」とかいうけど、手持ちの発想のネタが同じ視点に立っていないという、想像が欠けている気がする。パターンの蓄積なしの分析、仮説なしの実験および証明に何の意味があるのか。

話を戻そう。上で述べた生活習慣のすれ違いを防ぐ一つの対策手段として、マナーが必要なのだろうと思う。ただ、マナーは強要すべき点ではないと僕は思う。マナーを守るというのは、あくまで自衛的な要因の方が強いし、法的な拘束力がない。あと、守るべき意味がわからないマナーだってたくさんある。マナーを単純に守るだけじゃなくて、そのマナーを守る意味を理解する必要があると思う。逆に言えば、理解できないマナーは守らなくて良いと、僕は考えている。電車やバスの中で携帯電話を使ってはいけない、っていうのは最早意味がわからないし。

比較対象をたくさん知って、想像のタネにすること。守るべきルール、マナーを選定すること。それを如何に日常生活の中で活用できることが大事なんではないかなーと思った。