師匠の存在意義

師匠の存在意義ってなんだろう、と思うときが最近ある。確かに師匠は必要だ。何かを学ぶ際には特にそう思う。だけど、依存しすぎてしまう関係性を作りやすい。極めて危険なものになりかねない側面も同じように保有している。そういう関係性を持った人をもう何人も見てきた。テーブルゲームのような思考が必要なゲームに強くなるには、自分で仮説を立てて検証する能力が必要になる。それは、自分自身で掴みとるものだ。師に依存することは、そういう能力を育む機会を奪ってしまうことがある。だから、師匠から常に何かを学び取ることが、必ずしも上達を約束するものではないと思う。

僕が麻雀をはじめた時のことを思い出してみる。誰かに何かを定期的に教わった記憶なんてない。身近にまともな意見をくれる人がいなかったので、はじめの内は一人で凸さんのブログを読んで打つを繰り返しながらやっていた。ただ、凸さんの理論はクイタン赤なしのルールのものだったので、天鳳で打つのには適していない部分が多かったように思う。とくに赤入りのタンヤオをどう仕掛けるかがわからずに苦戦し続けていた。このときは確か4段くらいだった。

そこから、ビギナーズラックを見つける。現代麻雀論はなんか読めなかった。文字が多いし、当時の僕には難解な単語が数多く含まれていたので、2ページくらい読んで、読むのをやめた。読みながら打つの行為を再び繰り返す日々がまた始まった。ビギナーズラックを3週くらい読み終えたくらいの時点で、5段になれたように思う。しかし、そこからが本当の壁だった。どうやっても勝てない。基礎的な技術が圧倒的に未熟だったのは確かだけど、それを指摘してくれる人もいないし、何より押し引きの感覚がわからなかった。そんな中で日本プロ麻雀連合のサイトを見つけた。衝撃だった。今まで学んできたこととは、何もかもが違う。ここに上達のヒントが何か落ちているかもしれない。そう思いながら、このブログを必死で読み漁った。10週くらいは読み返したと思う。そして、この頃から課金をはじめた。データを取るためだ。当時、何人かの高段位者のデータを集めたサイトがあったので、そのデータを見比べれば何か見えるかもしれないと思いながら、データを取るために打ち続けた。そんな日々が続き、やっと6段になれた。

しかし、昇段したのもつかの間、7段というとんでもなく高い壁が僕の前に立ち塞がっていた。僕がやっと6段にあがったくらいの時期に鳳凰卓ができるという噂がすでに立っており、とりあえずそこに行くのを目標としていたので、7段になるという事は僕にとって最も達成したい目標だった。そんな中、livetubeで高段位者が麻雀の配信をしているという話を知る。高段位の配信には時間が許す限り顔を出し、彼らのプレイを飽きるまで見ていた。たまに質問したりもしながら打ち続け、なんとか6段で安定できるくらいの実力を身につける。しかし、6段を維持するレベルをなかなか超えれずにいた。

ちょうどその頃に、打ったデータが1000戦分を超えたくらいまで溜まっていたので、解析をかけて高段位者のそれと比較してみた。まず、あがりが少ない。仕掛けの精度が低いから、あがれないし放銃する。放銃のパターンもひどい。リーチの精度も悪い。穴だらけだった。何人ものデータを見比べて、高段位者の傾向を掴み、仮設を立て、修正しながらひたすら打ち続ける。あとは集中力と数の問題だ。その結果、なんとか7段まで駆け上がれた。当時はまだ7段以上の人数が1000人以下だったように思う。そこからまた打ち筋の修正が始まり、今のスタイルに落ち着く。7段になってからは、あまり数をこなさなくなったように思う。強い目的意識が遠ざかっていったのだろう。そこからの成長スピードはかなり遅いものになってしまった。

経験からいえば、師匠と呼ばれる人に何かを教わらなくとも、強くなることはできる。師匠の姿は自分の中の理想像として持っている程度でちょうど良い。甘えすぎる関係性は、逆によい結果を産まないだろう。大事なのは、自分で学び続ける大事さを知ることだ。それに、こういうゲームで勝ち続けるために必要なものは、自分の判断に対する信頼や自信だ。それはたくさん悩んだり、試行錯誤した末に身につくものだ。自分自身で掴みとるものであって、誰かが与えてくれるものではない。だけど、はじめは誰もそんなことを知らないし、理解していない。自分で仮説を立てて試してみる。それでダメなら修正する。この当たり前の行為を繰り返すことで、自力で学ぶことの大事さをはじめて知るのだと思う。